黒潮の島に流された人々|八丈島の歴史と流人文化をたどる
八丈ぐらし編集部 ・ ・ 約2分で読めます ・ 0回閲覧
東京の南に浮かぶ八丈島は、江戸時代を通じて多くの流人が送られた「流人の島」でもありました。宇喜多秀家をはじめ、公的資料で確認できる史実から島の歴史をたどります。
東京から南へおよそ287キロメートル。黒潮に囲まれた八丈島は、豊かな自然の島であると同時に、江戸時代には流人の島として知られていました。ここでは、公的資料で確認できる史実をもとに、島の歴史をたどってみます。
黒潮に囲まれた「流人の島」
八丈島は江戸時代を通じて、多くの流人が送られた島でした。海に隔てられた地であったことが、その背景にあります。流された人々は、それぞれの土地の文化や技術を島にもたらし、島の暮らしや芸能に影響を残したと伝えられています。
宇喜多秀家という人
島の歴史を語るうえで欠かせないのが、宇喜多秀家です。豊臣政権のもとで重きをなし、岡山城の城主でもあった人物ですが、関ヶ原の戦いに敗れ、慶長11年(1606年)に八丈島へ流されました。
公的資料によれば、秀家は一行とともに島へ渡り、髪を下ろして「休福」と名乗り、明暦元年(1655年)に84歳で亡くなるまでの長い年月を島で過ごしたと伝えられています。その墓は東京都の指定旧跡となっています。
玉石垣と島の風景
八丈島を歩くと、丸い石をていねいに積み上げた玉石垣が目に留まります。海岸の丸石を積んだこの石垣は、大里地区などに今も残り、島らしい風景をつくっています。石は流人たちが海岸から運んだという説も伝えられており、島の歴史と暮らしが石垣に刻まれています。
史跡をたずねる
宇喜多秀家ゆかりの地や玉石垣の残る一帯は、静かに歩いて巡ることができます。派手な観光地ではありませんが、島の歩んできた時間を感じられる場所です。年号や人物にまつわる細かな逸話には諸説あるものもあるため、現地の案内板や資料館の解説とあわせて味わうのがおすすめです。
出かける前に
史跡の場所や見学の詳細は、公式情報でご確認ください。

